尾崎放哉の中学時代の俳句

12歳で中学に入った放哉は2歳上の級友たちとも一緒に勉学をしていました。
この頃には野球倶楽部である「練兵場組」に入るなど、スポーツの面でも活発だったようです。
後の放哉とはイメージが異なる中学時代だったのかもしれません。

既に中学時代から、文学に興味を持ち俳句を詠んでいた尾崎放哉。
梅史と号して校友会誌の「鳥城」(とりしろ)などに俳句を寄せていました。
まだ自由律俳句が生まれる前ですので、すべて定型俳句です。

この時期の放哉は俳句一辺倒というわけではなく、短歌や随想、短編小説など広く文学の創作に親しんだようです。
短歌では「梅の舎」という号を持っていました。
ですが、放哉研究家の小山貴子氏によると、より俳句に力を入れている印象があるとされ、その要因を当時の鳥取の文学的状況に求めています。
当時の鳥取では鳥取県岩美町出身の俳人坂本四方太の主宰する卯の花会が力を持っていたという状況がありました。坂本四方太は正岡子規門下で名高かった俳人の一人です。こうした状況が放哉が俳句に傾倒するきっかけを与えたのかもしれません。

この時期の放哉の動向に関しては、小山貴子氏の「鳥取一中時代の尾崎放哉」が参考になります。

以下は放哉の中学時代の俳句です。

きれ凧の糸かかりけり梅の枝

水打つて静かな家や夏やなぎ

木の間より釣床見ゆる青葉かな

よき人の机によりて昼ねかな

刀師の刃ためすや朝寒み

虫送り鎮守の太鼓叩きけり

露多き萩の小家や町はづれ

寒菊や鶏を呼ぶ畑のすみ

旅僧の樹下に寝て居る清水哉

欄干に若葉のせまる二階かな

見ゆるかぎり皆若葉なり国境

行春や母が遺愛の筑紫琴

病いへずうつうつとして春くるる

行春や母が遺愛の筑紫琴

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